みなさん、けもの見てますか⁇
けものフレンズは、良作揃いの今期の中でも一二を争う面白さを持った良作です。
けものフレンズの面白い部分は無数に存在しますが、今回はその中でもこの作品の核となる部分の一つについて言及していこうと思います。
ネタバレはほぼありませんが、視聴してから読んだ方が恐らく良いと思われます。
また、漫画版にも言及します。
またまた、アプリ版未プレイの糞雑魚ゆえに見当違いの部分があるかもしれません。ご容赦ください。
それから、この記事は二話時点のものです。
それでは予防線もほどほどに、本題に入ります。
これは、文明を再発見していく物語である
この作品では、人類は明らかに滅んでいます。
これは、漫画版の正常運営下におけるジャパリパークと比べるまでもなく、視聴開始数分の時点でわかる事実です。食べないよ!
そんな環境において、(フレンズと化した人類という種*1/滅亡した人類の生き残り)であるかばんちゃんは、失われたオーパーツ群を自身の思考力を使って復元していきます。
一話においてパーク自体の機能を(n年ぶりに)利用したこと、二話でパークの地形とサービスの修復を試みたことがそれにあたります。
そしてその発想力と行動を持ってフレンズたちを使役し、フレンズたちの中でいわばカリスマ的な扱いを受けるようになっていきます。
これは、人間がその知能を持って世界を拡大し、動物たちをピラミッドの下に追いやった歴史の、いわば「繰り返しを描写している」といえるでしょう*2。
そしてこの繰り返しこそ、異世界転生ものだったり、youtube の原始時代シミュレーションだったりに見られるような、面白さのメソッドなのです。
「再発見の面白さ」とでも言うべきこのメソッドは、概念としては簡単です。
未だ発展していない異世界において、人類史が進めた文明をもって世界を前に進めてゆく。
そしてそれを、未開の土地の現地人に説明し、賞賛を受ける。
これはいわゆる俺TUEEEと呼ばれるものの一種*3と言えるでしょう。
「再発見の面白さ」が持つ問題とその画期的な解決策
しかしながら、このメソッドには「現地人頭悪すぎだろ」という批判を受けてしまうという大きな弱点があります。
つまり現地人も頭を使って日々生活しているのだから、椅子という概念を発見できないことには理由が必要である、という言ってしまえばあたりまえの話です。
逆に言えば、理由がしっかりしていれば、大したことをしなくても、それを発見し実践することで「すごみ」とでも言うべき、賞賛に値する価値を生じさせることが可能です。
では、けものフレンズにおいてその辺りはどうなっているでしょうか?
実は、ここがけものフレンズのすごいところなのです。
けものフレンズでは、俺TUEEEの対象を「フレンズ」という概念にしています。
そして、なんとそれだけで、この「現地人頭悪すぎだろ」という批判を回避し、かばんちゃんに「すごみ」を発生させることに成功しているのです。
それでは、詳細を解説していきましょう。
けものフレンズとは何か
けものフレンズの人間性
けものフレンズにおいて、俺TUEEEをする対象はもちろんフレンズです。
この「けものフレンズ」は「けもの」でも、そして「人間」でもなく、「けものフレンズ」という中途半端な存在です。
ではこのフレンズという存在は、紙ヒコーキを飛ばせない程度に、頭の悪い存在なのでしょうか?
しっかりと見ている方なら、その答えがNOであることがお分かりだと思います。
作中の描写として、サーバルは紙ヒコーキを投げたのがかばんちゃんだと正確に把握していますし、それをかばんちゃん自身が作ったという事実を評価しています。
そもそも。
俺TUEEEの相手は、単に頭が悪ければなんでもいい、というわけではありません。
仮に相手が単なる「けもの」だったとして、人間はけものに対して、俺TUEEEをすることはできないのです。
犬の群れに対して人間がすごみをアピールする様を想像してもらえば分かりやすいと思いますが、一応理由にも言及しましょう。
なぜ人間はけものに俺TUEEEできないのか。
それは、そもそも便利だとかすごいだとか、そういう「常識」という概念を、人間とけものは共有していないからです。
だから、紙ヒコーキを作って飛ばしたとして、けものはそれを見て喜ぶかもしれませんが、
それを作ったのが人間で、それをその人間がどうやったのかわからない、すごい、という感情で喜ぶわけではないのです。
その点において、フレンズは「けもの」とは一線を画す存在と言えるのです。
さらに例を見ていきましょう。
一話でサーバルは、看板を見て現在地を把握しています。これは、風景を見て現在地を判定する行為の延長線上にありますので、「けもの」でも行える行為です。
これだけではその行為が、看板をどのように捉えたのか判断することはまだできません。
しかしながら彼女は、その直後にかばんちゃんが取り出したものをみて、それを「地図」であると認識します。
そして、地図があれば便利だと、サーバルはそう認識していることを明らかにします。
地図を読むという行為は、風景としてのオブジェクトとして風景を捉えるのとは違って、地図という概念、そしてそこに表された記号の意味の共有が必要になりますから、とても高度な行為です。
人間は緑に塗られた領域を森と判断しますが、それはそういう記号を互いに共有しているからこそ可能な行為なのです。
つまりこれは、「フレンズ」が「人間」とある部分で常識を共有していることを示しています。
このことから、フレンズは単なるけものではなく、見た目以外にも人間の要素を持った存在であるといえるでしょう。
けものフレンズの「けもの」性
ならばなぜフレンズたちは、かばんちゃんが示すまで様々なことに気付けないのでしょうか。
ここでフレンズたちが「元となったけものと同じ特徴を持つ」という性質の存在であるという事実が重要になってきます。
それは、人間の形でありながら、人間の特徴を共有していないということなのです。
例えば。
指から高速で物体を射出できる機能を持った現地人がいたのなら、その世界では銃という物体をわざわざ作る必要がなかったかもしれません。
椅子を発見できなかった現地人に膝関節がなければ、座るという概念が発生しなかったことに説明がつくかもしれません。
つまりフレンズたちは、
「その認識がない/その方法が自身に適していない/そもそもその方法を実現する器官を有していない」
からこそ、かばんちゃんが提案する手法を自力で取らない。あるいは、取ることができないのです。
サーバルは、地図がケースに入っていることをかばんちゃんに教えられました。
しかし彼女は自身の手でそれを取り出すことはできない。
そもそも手がそのようにできていないからです。
これは種の違いからくるものであり、そこに疑問を挟む余地はありません。
人間と常識をある程度共有し、人間のカタチをしながらも、人間と身体的特徴を一切共有しない存在、という概念としてフレンズを設定することで、けものフレンズはメソッドを疑問を挟ませることなく成立させたのです。
けものフレンズという概念
けものフレンズは、頭が悪いからかばんちゃんに感心しているわけではありません。
自分にはできない手段で、自分がやりたかったことを実現できるから。
「フレンズによって、得意なこと違うから」
一話の印象的なセリフです。
これはけものフレンズの本質の一端だと思います。
馬が走るのを、鳥が空を飛ぶのを、ペンギンが速く泳ぐのを、人間は一方的にすごいと感じ続けてきました。
しかしこの作品において、ついに人類は彼らに俺TUEEEする術を得たのです。
しかも、「人間から見たけもののすごみ」を阻害する、という方法ではなく、むしろけものに対してある程度の人間性を与えることによって。
二話ではかばんちゃんがそのすごみを遺憾なく発揮しますが、一話ではむしろほとんどのパートにおいてサーバルがその身体能力でかばんちゃんを圧倒しています。
このように、この「けものフレンズ」という作品は、単なる単方向の俺TUEEEだけではなく、双方向に「すごみ」をやりとりし合うことを可能にしているのです。
余談
ところで。
サーバルは、看板に添えられたパンフレットの存在には気づけませんでした。
人間であれば誰もが無意識に開けたであろうあのケースに地図が置いてあるという認識は、
しかし「フレンズ」にはないようなのです。
フレンズと人間は、ある点で確かに常識を共有している。
しかしながら、すべてを共有しているわけではないのです。
「ラッキービースト」は人間とフレンズを明確に区別しています。
だから、両者には明確な違いが存在するはずなのです。
その違いこそ、フレンズという概念が一体何であるかに繋がる謎であるといえるのではないでしょうか。
まとめ
地図が便利であると認識できる「人間」の部分と、人間として振る舞う(必要がない/ことができない)「けもの」の部分をあわせもつ、「フレンズ」という特異な存在。
「けものフレンズ」という概念自体が、かばんちゃんがジャパリパークにおける、いわば「無双」を成立させた、大きな舞台装置なのです、という話でした。
もちろん、けものフレンズにはそれ以外の魅力も山ほど存在します。
個人的には「けものフレンズ」が良質なSFであるという部分こそがもっとも魅力的な部分だと思うので、この先その部分にも言及していければと思います。
というわけで、「ジャパリパーク、ツチノコもいるんだぜ」編をお楽しみに。
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